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「ふー」
一年生の主任、近藤が重たくため息をついた。
「おはよう近藤さん。どうしたんだ? 朝っぱらからため息なんざついて」
主任の机の斜め前。1年Z組の担任の土方が鞄を机に置きながら問いかける。
「あぁ……。保健の美谷先生が怪我で入院したそうだ」
「なんだって……?」
美谷とは、いささか学校に相応しくない派手な化粧をした若い女性教諭だ。
「怪我の具合は?」
「わからん。身内の方から連絡があったんだが、そこまで教えてはくれんかったらしい。命に別条はないそうだが……」
「そうか……」
眉間に皺を寄せる。
それは不幸にあった美谷を心配してのものでもあったが、安堵した自分に腹が立ったせいでもあった。
美谷が酷く苦手だった。
学校の中だというのに不必要に近づいてきて、体をくっつけたり、酷い時には胸を押しつけてきたりする女だった。
やんわりと押しのけるものの一向に止まず、ほとほと困り果てていた。
美谷と土方の接点などまるでない。本来であれば受け持ちの生徒が保健室へ行った場合のみ報告を受ければいい。それは多くともせいぜい週に一回程度だ。なのに頻繁に近づいてきて中身のない話を延々とされる。最近では仕事の手を止められるほどエスカレートしてきた。
いつまで入院するのかは知らないが、たまってきた仕事を片付けられる。そう思ってしまったからだ。しかしそれは事実なのだけど。
放課後。土方は書類に筆を走らせていた。
美谷がいないお陰で仕事が捗る。そもそも土方は書類整理が得意だ。好きではないけど。
部活の生徒の声が聞こえなくなる頃、誰もいなくなったはずの職員室のドアが開いた。
誰だろう? 振り返ると、そこにいたのは教師では無かった。学生服を着崩した銀髪の生徒がポケットに手を突っ込んで、薄い鞄を小脇に挟んではいってきた。
「土方センセー、もう暗くなっちゃったよー。帰ろうー」
土方の受け持ちであるZ組の生徒だ。間延びした声にはまるで力が入って無い。眼を半開きにしているが、眠たいわけではなくこれが地顔という顔面筋までやる気のない男だ。
「坂田……。お前まだ残ってたのか。最近は物騒なんだから、暗くなる前に帰らなきゃ危ねェだろうが」
「それは俺のセリフだから! 先生美人なんだから俺よかずっとアブねぇでしょ」
「ばっ……!」
力が抜けた生徒が強くはなった一言に、土方は椅子を鳴らして立ち上がった。
「美人とかいうなっつったろ、年上の男に向かって馬鹿か! 死んだ魚みてぇな目だとは思ってたが、とっくに腐り果ててんのかよテメーの目玉は!」
「鏡みてくださーい。先生はそんじょそこらの女よかずっと綺麗ですぅ。校内アンケ取ったら五位以内入賞間違えありません。俺的にはぶっちぎり金メダルですぅ」
「おおおお前、どんだけ特殊な嗜好してんだ」
「だーから、綺麗なんだって! センセーが俺に純潔捧げてくれるっつーんなら、俺、猛勉強して学年十位以内に入ってみせる!」
十位……。
目の前の生徒の成績は低空飛行どころか道路工事のドリル並みだ。底辺の限界に挑戦! といった感じで土中を驀進中だ。
土方は思わず顎に手をやり考え込んでしまう。
「へ!!? マジ悩んでくれんの!? マジマジ!? つかもう駄目です、取り消し聞きません! 約束したからね。10位以内だったら純潔貰うからぁ!!」
銀時の勢いに、は、と土方は我を取り戻した。
「でっけー声でややこしいこと抜かしてんじゃねぇ! そんな約束出来るわけねぇだろ!
「んじゃ、キス! 10位でキス! これならいいだろ!?」
う。
最初からキスが欲しいと言われていれば断っただろうが、先に純潔を貰うとか言われたせいで、キスがとてつもなく簡単な条件に思えてしまう。そもそも、このバカなザル頭の生徒が10位以内など不可能に違いないのだし。
「あぁ。判った。判った」
「っっしゃ〜〜〜〜!!!」
面倒臭そうに手を振って答える土方とは対照的に拳を握って喜ぶ銀時。
「しかし、てめー、普通にモテんだろうに、なんで俺にかまってくるんだぁ?」
ふあふあの髪の毛に掌を載せる。
へへ、と笑う銀時の瞳が小さな子供のように輝いた。こんな目をするから邪険にできない。
「こんなに先生と喋るの久しぶり」
そういえば。
「そうだな」
入学してからこっち、ずっと付きまとってきた男がなぜ大人しかったのか――? 土方の疑問はすぐに解決した。
美谷が居たからだ。
美谷はいつも銀時をおいはらった。もしくは居ないもののように無視をして、土方にくっついてきた。
「怪我をしたそうだが……。いつから復帰するんだろうな」
「早く戻ってきてほしいのかよ」
主語もなく呟いたのに内容を理解した銀時が責めるように訊く。
「いや。不謹慎ではあるが、先生がいると仕事にならないからゆっくり療養していてほしい……とも思うが、美谷先生が居ないとお前が絡んでくるのか。どっちもどっちじゃねぇか?」
「俺はまだマシじゃん! 先生の仕事が終わるまで待ってんだよ。俺の方が空気読めてね?」
「確かにそうだな……。意外だ。お前、一応気を使ってたんだな」
「たりめーでしょ。俺先生を愛してるから、負担にはなりたくねーの」
「ばーか」
笑って机に向かう。書類を片付けて帰る準備をしていく。
「美谷センセ、さぁ。もう戻ってこねーと思うよ」
銀時が囁くように呟いた。
違和感を感じて土方の手が止まった。背後に立っているのは銀時だったはずなのに、まるで別人のような気配が漂ってくる。
銀時は続ける。声が弾み始める。機嫌の良い子どもの声だ。
「かなり酷い怪我してるもん。鼻の骨折れてたし、前歯も二三本いってたみたいだし。そんな顔じゃ、ガッコに戻ってこれねーでしょ? 少なくとも、俺だったらこれないねー。そんな顔、土方センセに見せたくないし」
くるくるとよく回る銀時の舌が紡ぎ出す、いつもの軽口の延長のような話題。
(なぜ)
土方はゆっくりと銀時を振り返った。
暗くなった職員室の中。
逆光で、銀時の顔が見えなかった。
「なぜ、知ってる?」
同僚であるはずの自分たちでさえ知らなかった、彼女の怪我の容態を。
「なーいしょ」
銀時は首を傾げて微笑んだ。逆光で見えなかったのが夢だったみたいにはっきりと見える。いつもどおりの笑顔が。
「土方先生にだけ、特別に教えてあげるんだ」
銀時の両の掌が土方の頬を覆った。
彼は着崩した学生服の下に赤いTシャツを着ていた。腕を伸ばしたせいで学生服の襟元が浮いた。
ちら、と見えた。
赤のTシャツに浮く、どす黒い赤の汚れが。
「――――――――!!!」
土方の震える指先が銀時の学生服のボタンを閉めた。
「シャツ、ちゃんと洗え。この服、二度と学校に着てくんな」
赤い目が土方を覗き込む。
「やっぱり俺、センセの事大好き」
土方が気に入っている子供のような笑顔でそう告げる。
指先の震えが全身に広がって行く。
そんな土方を銀時の腕が優しく抱き締めた。
「この世で一番、あいしてる」
耳に流し込まれた声が、毒のように全身に染みわたっていった。
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