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土方は雨の中を歩いていた。
バケツをひっくり返したような――とまではいかないがそれなりに大雨だ。
一粒一粒が大きい。男に言うには随分な言葉なのだが、土方の黒髪は烏の濡れ羽色と評されるうつくしい黒髪だ。その髪からは雨の滴がいくつも滴って、高そうなスーツに吸われて行った。そのスーツも絞れるぐらいに濡れているのだが。
傘を持ち歩く人の中には、土方に奇異な物でも見るような視線を向ける者もいた。
土方はスーツ姿で傘もささず、荷物も持たずに、そのくせ急ぐ様子さえなく、ただうつろに歩いているからだ。
「………………」
鬱陶しく張りついてきた前髪をかきあげる。
いつもの癖でタバコを取り出そうとしてこんな雨の中で火が灯るものかと自嘲する。そもそもたばこ自体びしょ濡れで使い物にならなくなっているだろう。
小さなビルの隙間に入り込む。ここは土方が住むマンションへの近道になっていた。
(ここを通るの、久しぶりだな)
会社には電車でふた駅の距離だ。
駅からマンションに戻るにはこの道を通るのが一番近いのだが、最近使った記憶がない。ここ数年は通勤に車を使っていたからだ。
土方は、大学を卒業すると同時に幼馴染達と会社を立ち上げていた。無謀な試みだと誰もに言われた。
しかしたったの数年で会社は成長を遂げ、土方の給料は設立当時の数倍に跳ね上がっていた。オフィス程度だった会社はビルへと移転し、社員用の駐車場も完備された。満員電車に揺られてあくせく通うようなあの頃とは随分変わってしまった。
車は会社の駐車場に置きっぱなしだ。
明日の通勤は電車になるな。
取りとめもない日常を思い、しばし逃避した。
が、すぐに、土方に挑戦的な――それでいて嘲笑うような顔を向けた男を思い出して、ぱしん、と平手で自分の頬を打つ。
自分を鼓舞する為に。
ミィ。
バケツやごみ袋や段ボールの積まれた路地を抜けていると、どこからか聞こえる幼稚な声が土方の足を止めた。
「あん……?」
膝を折り、水を吸ってふにゃふにゃになった段ボール箱を開く。
中には、白の毛並みの子猫が入っていて、また「ミィ」と鳴いた。
段ボールの底にはタオルが敷き詰めてあるが、どう考えてもここで飼っているわけではなさそうだ。捨て猫だ。
「…………」
「ミィ」
「…………」
「ミィ」
「…………」
くるっとした目の、乳のみ子から脱したばかりの猫。たぶんこのまま放置したら、死んでしまうのだろう猫。
「ま、これも縁って奴か……」
土方は猫を両手で抱え上げた。
「わんわん。俺も拾ってくんなーい? そこ行くおにーさん」
唐突に話しかけられて、土方はぎくりと肩を揺らした。
振り返る。土方と同じよう、びしょぬれに濡れた男が足を投げ出して地べたに座り込んでいた。
髪の毛が見事な白色だ。いいや、銀か。
雨に濡れているというのに、毛先は奔放に跳ねている。
「ねー、おにーさんってば」
男は立ち上がり、土方のスーツの裾を掴んだ。
「ふざけんな何だテメー」
あり得ない髪色に一瞬放心してしまったものの、すぐにいつもの調子を取り戻して男を振り払う。
「どこの世界に男拾って帰る男がいるかってんだ。女にでも拾って貰え」
土方は長身の部類に入るが、銀髪男の目線はそれよりもほんの少し高かった。
重たげに瞼のかかった瞳は赤い。いい男だ。いくらでも拾い手は現れるだろう。
「いやーん、女に拾われたら俺食べられちゃうじゃなーい。俺、その辺厳しいの。貞操を守る男なの。好きな人とじゃなきゃ嫌な人なの。俺も男に拾われるなんて冗談じゃねーんだけど、貞操を守るために男に拾ってもらうっきゃねーっていうジレンマの中で苦しんでんのよ。だから頼むよっつか聞いてねぇし」
関わり合っていられない。土方はわき目も振らずにスタスタと歩いていた。
水たまりを蹴散らす足音が追ってきた。
「なー、このままほっといたら俺肺炎になって死んじゃうかもよ? そしたら随分目覚めが悪くなるんじゃないのかな〜?」
「今十分気分わりーんだよ。追ってくんじゃねー白髪大仏」
「白髪じゃねーよ! おまけに大仏っていわれるほど頭クルクルじゃないからね! 大仏ってお前あれパンチパーマじゃん! 俺の髪は天パだから!」
男の口は次から次に言葉を吐きだし続けた。
いつの間にか、「あの男」の顔を脳裏から追い出していた自分に気がついて、逃げるような早足だった土方の歩調が緩んだ。
土方のマンションが目の前になった。
「なーなー、一晩泊めてくれるだけでいいから頼むぜおにーさん! 大丈夫、介抱ドロとかじゃねーし、あ、俺家事も得意だぜ。おいしい食事作ってあげちゃう! だからさー」
「…………和食」
「へ?」
「和食作れんのかって聞いてんだ。友達が実家から送ってきたっつって、カボチャを丸っと一個くれたんだよ。包丁さえ通らねぇから放置してんだ。あれ使ってなんか作れっか?」
「……かぼちゃを切るにはコツがいるんだよ」
その一言で、土方はこの男を家に連れ帰ることに決めた。
得体も知れない男を家に招くなど、普段の土方からすればあり得ない話だ。
それだけ、心が弱っている証でもあった。
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