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「ちゃんと百数えたかぁ?」
土方が風呂からあがると、男は台所に立っていた。
ドライヤーで乾かしたのか、ふかふかになった子猫が床を走り回っている。
土方が濡らした床も綺麗に拭きあげてあった。
身長はさして変わらないというのに、男の方が肩幅が広いのだろう。袖が短いように見える。忌々しい。土方は舌打ちしそうになったが寸前で堪えた。
鍋の中でいい香りがする何かがことことと音をたてている。
「まだもう少しかかるから、これでも飲んでゆっくりしてろ」
男が冷蔵庫の中から取り出したのはビールだった。
「これ、つまみ」
続いて差し出されたのはすりつぶしたかぼちゃのサラダだ。
「カボチャ、すっげーでかくてビビったぞ。痛む前に食わなきゃだから、カボチャづくしになるけど文句いうなよ」
「あ、あぁ……。その、猫に餌はやったのか?」
「あぁ。適当に食わせた。でも人の食べ物やるのあんまり良くないらしいから、猫缶飼ってきてくれよご主人さま」
「テメェは犬缶か?」
裏路地で、わんわんと声を掛けられたのを思い出して、唇の端だけで笑う。
「意地悪だねぇおにーさん」
「土方だ」
「え」
「え、じゃねーよ。俺の名前が土方だっつってんだ。テメェは?」
男はキッチンに視線を戻して手元の野菜を刻みながら言った。
「おにーさんが好きに呼んでいいよ」
「あぁん? 素性を明かせないほどやべぇ男なのかお前」
面倒はご免だとばかりに顔を歪めた土方に、男は慌てて手を振った。
「ちょ、そーいうんじゃねぇって。ただ、せっかく俺を知らない奴の所にいるのに、名前を呼ばれたくねーっつーか」
「なんだそりゃ」
「俺、逃げてきたんだよ。仕事から」
プルタブを起こそうとしていた土方の指が止まった。
「なんつーか、方向性の違いっつーのかな。同僚ともめちまってさ。面倒臭くなって逃げてきた。んで、土方クンに拾われたってワケ」
「……そうか」
今度こそプルタブを起こしてビールを開けた。
「はー、昔は良かったんだけどなぁ」
男は大仰にため息をついた。
「同僚っつーのが学生時代からのダチばっかなんだけどさ、狭い俺んちのアパートに男が三人も四人も集まってああしたいこうしたいって話してさー。どいつもこいつも不器用ぞろいだったから俺ばっか料理させられてたんだけど、皆で食うメシはやっぱ楽しくてよぉ。仕事の話だってのに言い合うのさえ夢中になったもんだ。いや、輝く青春だったねアレ」
土方は小さく息を呑んでしまった。自分の話かと思えるぐらい、男の話が自分に符号する。
「昔話に花咲かせてんじゃねーよ。おっさんかテメェ」
「どうせおっさんですゥ」
「俺もおっさんだな」
ビールを傾けながら土方は苦笑した。
「俺もおんなじだ。幼馴染と一緒に会社立ち上げて……。起動に乗ったのはいいが、今はしがらみにがんじがらめにされちまってにっちもさっちも行かなくなっちまってる。こじんまりとやってた頃はそれこそ24時間働いてたって、今より全然楽しかったってのに」
へぇ。男がため息みたいに呟いた。
「似た者同士じゃねーかよ。あそこで会えたのは運命って奴だね」
男の声がことのほか嬉しそうに聞こえて、土方は悪態を付くしかなかった。
「ばーか、何が運命だ。気色わりー」
「ここは運命だっつっとけよ。ま、男同士で傷なめ合うのもアレだけどよ……。飯、どうする? ビール飲んでから食う?」
「ん、米いらねぇ。おかずをつまみにして飲む。お前も飲むだろ? ビールしかないけどいいか?」
「おう。わりーね土方クン」
テーブルの上に食事を並べて、男も席に座った。
「んで? 俺の名前は何てつけてくれんの?」
男は悪戯に笑う。悪ガキの笑顔だった。
「……シロ」
「白髪じゃねーっつってんだろ! これは輝く銀髪なの!」
「んじゃ、銀」
「色から離れろよ……。ま、いいけど……」
「いいのか? んじゃ、今日からお前は銀、な?」
「マジ犬扱いしてんなテメェ」
「犬じゃなかったら拾ってねーっつーの」
食事は、思いのほか楽しかった。
並べられたおかずのどれもが美味かったし、
度を越したマヨラーな土方からおかずを死守しようとする銀とのやり合いさえ楽しかった。
屈託なく騒ぎながら食事をするのは酷く久しぶりだった。
重く心に伸しかかっている物を忘れることが出来た。
銀に会わないままだったら食事さえ取らず、ベッドに入ることもできず、今日の事と、これからの対処法を考え続けていたかもしれない。
「土方クン、同居人はいつ帰ってくんの?」
何本目かのビールを開けた後、唐突に銀がそんな事を聞いてきた。
「同居人なんていねーけど」
「え!? マジでか!? テメェ、それでよく今まで生きてこれたな!」
「どういう意味だ! 俺は通知表にしっかりしてるって書かれ続けるぐらい、学生時代から自己管理が出来てる人間だぞ」
「はぁ? ないない。小学生じゃないんだから一秒でばれる嘘つくんじゃねーよ。お前、自分のこと全然わかってねぇもん。一人にしてたら三日で力尽きるタイプじゃん」
「違うっつってんだろ!!」
「つか、マジで一人暮らしなの?」
「たりめーだろ!!」
銀は眉間に皺をよせて、土方の頬に掌で触れた。
「――ッ!?」
土方は驚いて体を震わせる。
暗い赤色の目が土方の目を覗き込んできた。
「無理してきたんだなぁ」
銀が、優しく笑いながら呟いた。
手にしていたビールを危うく床にぶちまけてしまう所だった。
「――――なんだ、そりゃ」
ようように手を払い落す。
浮かぼうとする涙を堪えて、缶に残ったビールを飲み干した。
「てめーも、もっと飲めよ」
銀に進めつつ自分もどんどん缶を開けて行く。
土方は強かに酔っ払って、リビングのソファに転がって眠ってしまった。
覚えていたのはそこまでだった。
翌朝。
いつも通りの時間に目を覚ました土方は、ベッドから身を起した。
布団の上で丸まっていた猫が伸びをして、ミィと鳴く。
猫のふかふかした毛並みを一撫でしてから、土方はベッドから降りた。
昨日ベッドに入った記憶がない。男が――銀が運んでくれたのだろう。
「銀」
あの男はどこで寝たんだろう。
押入れの中に予備の蒲団が入っていたのに気がついたか?
「銀」
どこからも返事はなかった。
す、と心の底が冷めた。
ひょっとして、帰ってしまったのではないか。
玄関に走る。
靴は、無くなっていた。
心の温度がさらに下がる。痛みまで伴った。
男の連絡先など一つも知らない。本名さえ知らない。
行く先がどこなのかさえ見当もつかない。
だけど、夢中で靴を履いてドアノブに手を掛けた。
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